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読書系フリーターの日常

ブラック企業を新卒半年で辞めた読書好きフリーターがいろいろ考えています。契約社員になりました。

若布酒まちゃひこさんと読書ブロガーオフ会してきた

雑記 読書

 

bibibi-sasa-1205.hatenablog.com

カプリスのかたちをしたアラベスク若布酒まちゃひこ(びんた)さんと先日お茶してきました。

彼が話した本の内容について書くならば(小説にゆるされる偶発/小説「砂の女(安部公房)」)、私は普通にオフレポ(?)を書いてやろうと思う。

発端はまちゃひこさんが8月はオフ会してくぞ、的な発言をされていたので乗っからせていただき、読書やブログや全然関係ないしょーもないことをさんざんダベり散らして帰ってきました。

 

さて、京大理系卒、アニメや読書についてかなり理論派な考察を書かれているまちゃひこさんがこちらです。

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なにそのTシャツ。

 

会うにあたって

 せっかくお互い読書ブログをしてるので、本を持ち寄ってそれについてお話しましょうよ、という話になって、持ち寄ったのがこちら。

グレッグ・イーガンディアスポラ

安部公房砂の女

・自分の好きな本

まちゃひこさん:エイモス・チュオーラ『やし酒飲み』

やし酒飲み (岩波文庫)

やし酒飲み (岩波文庫)

 

 私:泉鏡花『海神別荘』

海神別荘・他二篇 (岩波文庫)

海神別荘・他二篇 (岩波文庫)

 

 読書の話

 『ディアスポラ

は、まちゃひこさんに難解だから!と以前勧められて読んでいたのだけど、ガチでハードすぎるSFゆえ難解すぎて一日10pくらいしか読めないため、半分読むのに一か月以上かかっていて、まだ読了していません。

あらすじを書こうにも本当によく分からない。

1行に一回ペースで何のことかわからない理論や用語が出てくるため、わからないの連続がストレスで読み進まない、という話をしたところ、まちゃひこさんは「わからないということそれがいい」というようなことを言っていました。

 

あとは、好きな章とか。私は「ガンマ線バースト」。まだわかりやすくて一番話が見えるし、地球人との認識の隔絶とか価値観の絶望的な違いとかの描写が面白かったから。

 

砂の女

は、まちゃひこさんがすでに詳しく書いておられるのですが(小説にゆるされる偶発/小説「砂の女(安部公房)」 - カプリスのかたちをしたアラベスク)、さっぱり理解できなかったものが、話しているうちに自分の中の考えが固まってきた感がありました。

 

そもそも初読では読んでいる最中から何を伝えたい話なのかよくわからなくて、この砂とか女とか集落とかが何かのメタファーなのか?と考えながら読んだらあっさり何事もなく終わってしまい、拍子抜けしたという感想。

 「砂の女」では、「砂」というもののイメージを科学的(あるいは辞書的)な意味からはじめ、そこに女の生活と経験によるイメージがぶつけられることによ り、「砂」というものの意味が解体される。そして、「砂」というものに対しての一意的なイメージを喪失した状態で、男は女との生活を経験する。テクスト化 された生を生き直すことで、その世界でのみ機能するとくべつな「砂」のイメージを得ることができる。

まちゃひこさんがこう書かれているのだけど、最初砂は男の中では辞書的な意味しかまたない、自分の実感として存在しないものだった。

一方、女は砂の中で生きており、砂は生活の一部で、ある意味女性的な感性で「生きたもの」だった。

男が女と生活するようになり、砂に辞書的な意味を残しながらも生活と結びついたものとして捉えるようになった。

 

違う人が言っていたけれど、それはもしかしたら理解しがたい異質なものを自分の中に受け入れていくプロセスなのかもしれないのです。

 

題字に

ー罰がなければ逃げる楽しみもないー

とあるのですが、

彼の生活は結局どこにいっても同じ。砂の集落以前も不満を洩らしながらうまくいかない生活を送っていた。そこから逃避してきた砂の集落に来てからも、不満を洩らしながらうまくいかない生活を送っていた。そこから逃げようとしていろいろ試したが、いざ逃げられるとなると逃げなかった。

どこへ行っても結局同じ、ということを砂の中で彼は見つけて、人生として受け入れたのだろうか。

 

まちゃひこさんとお話をしていて、そんな風に解釈しました。そもそも解釈とかいらないんですかね。

好きな小説

お互い持ち寄った本についてはあまり話をしなかったけれど(趣味が違いすぎた)、翻訳小説の歪さ、面白さとか。そんな話になりました。

まあでも、京大理系卒のまちゃひこさんと数学の偏差値28の私が好きな本について会話してかみ合う方がないだろうと思う。

『やし酒飲み』は、アフリカ人が不慣れな英語で書いた小説を日本語に翻訳した、というなかなかに面白そうな(?)小説らしい。

『海神別荘』は何度も書いているけれど、日本語の表現と音感の美しさを極めた作品だと私は思っている。

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好きな小説とは若干離れるけれど、お話していて思ったことはそもそも小説の捉え方が違うということ。

 

私は小説を書かないし、まちゃひこさんは小説を書く。

私は意図が込められ隅々まで計算されたものを美しいと感じる人間だし、既存の価値を壊したりそれに挑んでいくのではなく、既存のものを緻密に組み合わせて違うものを作り上げている作品は何であれ好ましく感じると思う。

彼は、むしろその逆だろうか。偶発的な意図については、引用エントリに書かれている。

 

私は本を開いたページの中の字面というか、文字情報の列の中に広がる世界を小説だと捉えていたけれど、まちゃひこさんは「本」全体のそのレイアウトまでを小説(表現)と捉えているのかな、と思いました。

お話を聞いていて初めて知ったけれど、本当にそういうところの小説とか表現とか、私がみてきたいわゆる文字が規則正しく並んでいるだけの世界の外はいっぱいあるんだなと思った。

 

つまり、私は舞城王太郎好き好き大好き超愛してる。とかは読めない。

ブログについて

他にも気になってるブロガーさん、読書ブログでPVを稼ぐにはどうすればいいか、はてなの最近気になることなどを議論したけど、こっちはわりと価値観が合う。読書ブログはマネタイズと検索特化まとめ以外の案はまだ出ていない・・・。

 

 

以上。お話させていただいた本はこちら。

砂の女 (新潮文庫)

砂の女 (新潮文庫)

 
ディアスポラ (ハヤカワ文庫 SF)

ディアスポラ (ハヤカワ文庫 SF)

 

京都の大文字焼きを犬文字焼きにしようぜ!/鴻上尚史 『8月の犬は二度吠える』

読書 京都が舞台の小説

鴻上尚史『八月の犬は二度吠える』書きだし部分のこの感覚は、京都で大学生活を送った人間なら共感できると思う。

新幹線が京都駅のホームに滑り込むと、いつも、身体の奥が震え始める。

この街で生活したのはもう二十年以上も前なのに、ホームに一歩足を踏み出すと、身体の深い部分がざわつく。

私にとっても大学4年間を過ごした京都は特別な場所で、学生時代は長期休暇終わって実家から京都に戻ってくるたび友達と、地元の駅より京都の下宿の最寄り駅に降りたときの方が「帰ってきた」って感じがするよね、なんて言いあったものだった。

 

さて、先日今年も無事に(?)祇園祭が終わった。

京都の次なる大きいイベントなら、大文字焼きこと五山の送り火でしょう。

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私も船岡山に登って何度か見たものだけど、 別名大文字焼きの、この行事を中心にした小説で思い浮かぶのは、鴻上尚史『八月の犬は二度吠える』だ。

八月の犬は二度吠える

八月の犬は二度吠える

 

内容は、一言で言うと学生(浪人)時代を同じ京都百万遍の浪人寮で過ごした男6人組が、24年の時を経て京都に集い、若さの至りで計画し一度潰えた「大文字焼きに点を足して犬文字焼きにする」という「八月の犬作戦」を実行するというもの。

 

一見アホなことをしているので、万城目学鴨川ホルモー森実登美彦『夜は短し歩けよ乙女に代表される京都の大学生の青春の系譜かのように見えるけれど、それらがリアルタイムの学生時代を書いているのに対して、『八月の犬は二度吠える』はその青春が完全に過ぎ去った過去のものとして描かれている。

 

 この小説においてリアルタイムなのは浪人(大学)生を終え、就職し、それぞれの人生を歩んだ24年後の現在であり、西加茂寮の浪人生時代は取り戻せない終わったものとして描かれている。

 

それぞれ順風満帆な、あるいはうまくいかない人生を経てくたびれた中年になった彼ら。

 

 24年ぶりに当時のメンバーを招集した、いつも皆の輪の中心にいた長崎は末期ガンで余命半年。

統率を任された山室は口をろくにきかなくなった子どもを抱えて虚しさを感じており、スポーツマンだった伊賀は30kg太って生え際が後退している。

関口は当時の面影そのままにオッサンになり出世し、大文字焼きに手を加えるという犯罪を犯せない立場に。

太っていた吉村さんはすでに120kgを超える巨漢になり、医学部に落ちて実家から勘当され独りうらぶれた生活。

計画の技術担当だった京大工学部卒の久保田は、就職に失敗したのち精神のバランスを崩して家から出られなくなり、薬の副作用で人格も面相も変わりきっている。

八月の犬は二度吠える (講談社文庫)

八月の犬は二度吠える (講談社文庫)

 

 東京で働いていた山室は長崎の最期の願いである「八月の犬計画」と当時のメンバーの再結成とともに長崎に依頼されるのだが、長崎の命の期限までに実行できるのだろうか?

 

青春時代と違い社会的な立場や世間体を抱えた当時のメンバーを集められるのか、実行することによる犯罪性(京都文化財保護条例に抵触)はどうするのか、実行できるのか?

 彼らの心に影を落とした、計画が潰れる原因となった事件を山室は乗り越えることができるのだろうか?

 

 ・・・というこの小説でグッとくるのは、若く人生に何も負うところがなかった浪人生時代と、中年になった現在の彼らとの対比だと思うのだ。

分量としては学生時代の方が多いのだけど、明かされてくる当時の6人の現在に、徐々にアホな浪人生時代のエピソードの部分がなんとももの哀しい、ある種のノスタルジーを帯びてくる。

 

 人生の中のそういう時間って、一種の幻想として誰もがもっているものなんじゃないかな。

 

それはたとえば、プロレスごっこに熱狂して大事に至りかけた浪人生時代だったり、全員で夜な夜な女子寮の「観測」に明け暮れた日々や、下宿に親がくるからと必死でエロ本を隠したり、全員で集まってインスタントラーメンを食べながら語り合ったり、賀茂川の両岸からロケット花火を打ちあって警察に追われた夏なんかが。

 

話の進行の中で、かつて計画が潰えて6人組が分解したのは中心の事件とともにそれぞれが胸に秘めた思惑なんかが絡んで徐々に明らかになってくるのだけど、五山の送り火という行事のもつ「魂を送る」という意味合いが話の中心なのでしょう。

 

 

京都の夏や大文字焼きに想いを馳せる際には、ぜひ読んでみほしい。

冒頭のようにさきっとまた京都に行きたくなるし、大人のノスタルジーを感じられる一冊だと思うから。

 

 

京都の青春小説はここに一度まとめました。合わせてどうぞ。

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美人に比べてイケメンが少ないのはなぜなのか/茂木健一郎 『化粧する脳』

読書

「美人や可愛い女って多いけど(それに比べて)イケメンは少ない」
定期的にこんな話題を見聞きしている。
私も実際思うのだけど、やっぱり街中を歩いていても容姿が一定値以上の女性は多けれど一定値以上の男性はそれより少ないと思う。

というのはやっぱり女性には化粧ってヤツがあるからで、美意識とか身なりを整えたり、美容に対する意識は間違いなく女性の方が高い傾向にある。
また、「自分の見た目を気にしない」人間というのは、女性より男性の方が多いというのが、私の実感。
これはつまり、「見られること」に対する意識の差があるのだろうと思う。

なぜそこに男女差があるのだろうか?
なぜ男性に美容や自分の見た目に対する意識が女性ほど育たない人間が多いのか?

そこを脳科学と生物の進化の点から書かれているのが脳科学茂木健一郎『化粧する脳』である。

化粧する脳 (集英社新書 486G)

化粧する脳 (集英社新書 486G)

そして、私はこれらが上記の「女子のいうかわいい娘と男のいう可愛い娘が違う」問題にも結びつくと考える。
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この画はそれを端的に表していると思う。
(元ネタがどこかわからないので、とりあえずネオ☆ニュースからお借りした)


以下、『化粧する脳』を参照しながら「美人よりイケメンが少ない問題」と「男子と女子のカワイイが違う問題」について考察する。

※不愉快になる人がいそうなので先に書いておくが、これはあくまで脳科学や生物の進化とかそういう部分の「美」とかそういう部分についてその観点のみにおいて書かれた/抜き出したものであり、性的な役割や傾向なども、あくまで一部分にしか過ぎないし、断言するものではない。
性的な役割については、「現代において男性が女性にプロポーズするのが一般的である」というような、あくまで傾向の部分を例示しているに過ぎないし、私も茂木健一郎氏もそのように断定的に考えてはいない。

見た目の美は生存適応である

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人間は女性の方が容姿の美を追求する傾向があるのだが、一方で、たとえば鴨やクジャクはオスの方が美しい色の羽を持っていてメスの方が地味、というのは有名な話だと思う。

美しい尾羽は良くも悪くも目立つ。つまり、外敵に狙われやすくなる=死の確率が上がるのだ。
その絶大なリスクと引き換えにしてもオスたちが手に入れたいものは何かというと、それはズバリ繁殖の可能性である。
メスが美しい羽を好むというただ一点で。
より形の整った、美しい羽をもつオスがメスに選ばれて子孫を残す可能性を得、それが有利な形質として遺伝していく。

この場合、クジャクやカモはオスが選ばれる立場だ。人間(現代人)だと、これが逆転する。
一般的に異性に対してアプローチをかける性は、現代日本においてもまだ男性ということになっているので、受動的な性として女性は、この例のクジャク同様に容姿を磨くことになる。

選ばれる性は、美を発達させるのだ

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生存戦略にはおおまかに分けて能動と受動の2通りの方法がある。

「力」で生きのびるメカニズムと、「美しさ」で選ばれて生き残るメカニズム

だ。

人間に当てはめると、能動的な性は社会的地位や権力・金銭などを獲得し、美を選ぶ権利を獲得する。
選ぶ側は、たとえば社会的な力を。選ばれる側は、たとえば美を。

そもそも、美は権力と結びつきやすいのだ。豪奢な宮殿や、美女・美男子を身辺に侍らせる、美術作品を収集するなど、力をもったものは希少な美を希求するのは自然の理だ。

つまり権力者・その社会の基準において強い性に選ばれる側になると、美を磨くことがより有利に生き残る戦略となる。
傾向として、女性が現代では受動的な性であり、美を磨くことは生存戦略として有効になる(=美人が増える)
男性は、能動的な性としてたとえば権力や地位などの希求を。

男性脳と女性脳の違いが差を生みだした

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男性脳は、一般的に論理思考に強く、女性脳は共感能力に優れているといわれている。
男性より女性の方が、一般的に情動は豊かである。それを司る右脳と左脳を繋ぐ脳梁という部分が女性の方が太いためだ。

男性脳は抽象・論理思考が強く、システム構築に優れているのだ。また男性は、一般的に能動的な性(あるいは、そのフィクション)に生きている。

ともするとそれは受動的な、影響されやすい生き方に対することへ危機感を覚えがちらしい。つまり、流動的に「他者に同調して自分を変えること、他社の視線を気にして自分を認識すること、自分が変わってしまうこと」に対して危機感を覚えがちだということ。
つまり、自己の顔のパターンが変わる化粧に対して、抵抗感を持ちやすいのではないか。

女性はというと、一般的に情緒が豊かで共感性が高いということになる。

女性は選ばれる側の性として、見られることの欲望をみずからの報酬として、化粧する。

女性の方が対人関係を意識して生きやすく、したがって自分自身の価値観で生きようとするよりも、
周りの人と同調し、他社の視点を自己の成り立ちに反映させることを大事にしながら、社会と折り合いをつけて生きていこうとする傾向にある。つまり、「見られること」に対する意識が高い。

女性は特にコミュニケーションの取りやすさや周囲の価値観の同調を表した顔を「美人(カワイイ)」と認識しやすいというところで、話はようやく「女子のかわいいと違う問題」に入る。
改めてこの絵を見ていただきたい。
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左の女子がカワイイと思う女の子が表しているのは、つまり「協調性が高い」と「コミュニケーション/表情の豊かさ」だ。

男性の可愛い(美人)は、ほぼ化粧もせずに髪も束ねただけ、服装もTシャツを着ただけ。注目されるのはその顔の造形であり、美の希少性である。

「カワイイは、つくれる」というのは某社の製品のキャッチコピーだが、男性はつまり女性よりも「つくれるカワイイ」よりもすっぴんでも美人(つくれない、希少性の高いかわいい)を好む傾向があるといえそうだ。その理由はこれまで述べてきた通りである。

おわりに・まとめ

美というものは、案外相対評価だったりする。「みんながそれを良いというから」という理由で支持母体が膨らんでいくことなどよくあることで、例えばそれは軌道に乗り始めたアイドルだったり、モナ・リザなどの名画だったりする。(本気で自らの価値観で良いと思っている人はたくさんいるのだろうけれど)

美人が全体の平均顔という有名な仮説があるが、それは、「多数の人にとって親しみやすく、感情豊表現が読み取りやすい顔」ではないかと茂木健一郎氏は述べている。ここで重要なのは、全てのパーツが平均値に近いということ。
だから、化粧は主に口や目を強調するものになるのだ。目や口は、感情を最も読み取りやすいパーツだから。

女性の脳はコミュニケーションや共感に強く、見られることに対しての意識が高い。受動的な役割の性だ。

これが女性が見た目に気を遣う人口の多い所以であり、女性にのみ「化粧」というものがみられる一因であろう。
女性の脳の方が最初に述べた相対評価的な他者の評価を内在化しやすく、コミュニケーションを美と結びつける傾向が強いのだ。

男性の脳はシステム構築や論理思考に強く、自分を変えることより他者に影響されて見た目が揺らぐことに抵抗を覚えがちな、能動的な役割の性だ。


そして、その違いが見た目の意識に出るから、男性と女性の「カワイイ」は違うのだ。

挑戦する脳 (集英社新書)

挑戦する脳 (集英社新書)


※あくまで、本書からタイトルの部分を抜き出して自分なりに要約・考察したものであって、内容の理解は違う可能性がある。
また、性差についても差別的なものではなく、本書も私も一般的な傾向について論じているのみである。
全体的に性差の話になるので差別に関してデリケートな話題だが、その辺りは本書でも茂木健一郎氏も細心の注意を払って差別的にならないよう書かれており、差別的だと捉えられたとしたら大部分が私のせいであることは明記しておく。

男女の脳の違いについては、こちらもどうぞ
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しばらく本を読まないとどうなるかっていうと/近況

読書 雑記

最近、就職しました。

就職するとどうなるかっていうと、忙しくなって拘束時間も増えるし疲れるし、つまり本を読む時間が圧倒的に減った。

一応読書ブログだから、本を読んでないのと、時間がないのとの二重の意味でブログもなかなか書けないのです。

 

今は、恩田陸夜のピクニックを読んでいる。

夜のピクニック (新潮文庫)

夜のピクニック (新潮文庫)

 

 主人公の友人の男子高校生が、

「中学生のときナルニア国ものがたりを教師である従兄弟に勧められたが興味がなくて読まず、後になって読んで後悔した」

みたいなエピソードがあってこう言っているのだけど、

十代の入口で読んでおくべきだった。そうすればきっと、この本は絶対に大事な 本になって、今の自分を作るための何かになってたはずだったんだ。

私も彼同様、「しまった」と思った。

中学生か高校生か、せめて大学の前半で読んでいた ら、この本は「大事な一冊」になったはずだったのに。

 

それで今日、久々に隙間時間とかでなく純粋に本を読む時間をつくっていて、なんだかほっとした。

自分が戻って来るような感覚。

 

てことは、ちょっと今まずい状態なんだな。

 

どういうことかというと、私はずっと欠かさず本を読んできたので、読むということがおそらく自分を形作るものの一つになっている。

つまり、本を一定期間まともに読まない生活が続くと、次第になんだかわからないが、人生が全体的に不調になってくるのですね。

この「なんとなく不調」というのが厄介で、「じゃあ本を読んでないからだ」とか気づけない。なんとなく不調。

 自分が分離する感覚。

 

前の会社のときもそうだった。

月3日の休みで毎日16時間労働の超絶ブラックだったので、本を読むなんて全く無理。気づくと、なんだか極度に自分がない状態になっていて。

もちろん、この場合原因は概ね労働環境のせいである。そしてそこを辞めて、また本を読み出したとき、「自分が戻ってきた」という感覚になった。

自分が人格と一致していないという自覚が全くなかったにも関わらず。

 

そして話は戻るが、今日本を読んでいて、私は「自分が戻ってきた」と感じた訳で、つまりまたちょっと危ない状況になりかけていたらしい。

 

自分がないというのはどういう状態かというと、まず、何かに対して自分自身の考えというのが限りなく薄くなる。何も考えつかない。思考力が落ちる。視野が狭くなり、余裕がなくなる。

これらはもとから私がもっている性質だけれど、なんというか、悪いところが増幅されていいところを覆い隠してしまう感じなんだ。

おそらく私は一人の時間がかなり大量に要るタイプなうえ、コミュニケーション力も高くないから、他人と一緒にいることが少ない。自分自身と向き合う時間を多くとりすぎてきたのかもしれない。

だからそれらがなくなったとき、自分がブレて不安定になるんだろう。

 

とりあえず、今日はブログを開設してちょうど1年らしい。

なんにせよ、今の会社はホワイトだ。慣れたら、読書とブログとの折り合いをつけていけたらと思う。

夜のピクニック(新潮文庫)

夜のピクニック(新潮文庫)

 

 

学歴はあくまで幸せになるための一手段に過ぎない

雑記 教育

全く読書が関係ない話になるが、あるきっかけがあってどうしても主張したいことなので書いておく。

 

私が出た私大はそこそこ高学歴の部類に入るが、本当に「そこそこ」の域を出ない。

一般受験組の多数が他の第一志望(旧帝大、上位国立など)を落ちて来た人だ。

かつて私もそうだったけれど、彼らの中には挫折感から学歴コンプレックスをこじらせてしまったり、歪んだ学歴観の中で育ってきて性格をこじらせてしまった人が少なくない。

自虐に走るか、偏差値がより低い大学を見下すか、無気力になるか。

 

まあ私も国立は狙えないにしても第一志望失敗組だから、その中でいろいろ挫折とか学歴への執着とか、学歴に異常に執着する親とか周囲とかと戦ってきてやっと冷静になれたわけだ。

 

そして今、やっと気づいたのは

学歴なんて、幸せを得るための一手段に過ぎないということ。

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by Silvia Sala

 

もうあと半年と少しもしたら、今年もまた志望大学に落ちて自ら命を絶ってしまう人が出たりするんだろうか。痛ましいことだ。

親も子も、「このレベルの大学に入れなかったからもうお終いだ」なんて思うのだろうか。私に彼らの心情を正確に推しはかることなどできはしないけれど。

 

学歴は何のために手に入れるんだろう。一流のいい会社に入るためだろうか。

いい会社には何のために入るんだろう。人それぞれだろうけれど、安泰な人生と保証された給料とか、周囲に称賛されるキャリアとかを得るためだろうか。

 

じゃあそういうものはなんで欲しいんだろう。

生活の保証=安泰な人生だったり、安泰な人生=幸せ、なんて思っているからだったりするんじゃないのか。

 

「いい会社」っていうのにくっついてくる、いろんなもの。世間の称賛とか自分のプライドとか、給料に福利厚生に、それら、そのいくつかを手に入れた先が「幸せな人生」になっていないか。

 

よく考えてほしい。

別に、「いい会社」にくっついてくるであろうそれらを手に入れる手段は、いい会社に入る以外にも無数にある。

いい会社に入ったらもれなくついてくる可能性は上がるけれど、やりたくも向いてもないことに死ぬほどの苦労をしてまで「学歴」という一つの手段にこだわる必要はあるのだろうか

そもそも、それらを幸せだと感じない人間だって普通にいるはずなのだ。

 

私がこの記事で最も伝えたいことは、

学歴は幸せを得るための一手段だ。その幸せになるための手段で不幸になるなんて、おかしい。

これが私の持論だ。

学歴に捕らわれている人を見るにつけ、「これさえ手に入れれば幸せになれる」という考え方は危ないなと思う。

 

異論はあると思うけれど、

勉強が好きでも得意でもなく、明確に将来の目標もないのに「いい大学に入る」ことに捕らわれている人は、一度考えてみてほしいと思う。

 

 

 

 

※サブブログの方に投稿してしまっていたのでそのままにしようかとも思いましたが、そちらを消してこっちに移しました。すみません。

川添さんと本の交換をしてみたらチョイスが真逆で面白かった

読書 雑記

quelle-on.hatenadiary.jp

Letter from Kyotoの川添さん(id:kkzy9)と加茂川(表記は合っているのだろうか)べりにて本の交換をしてきました。

上記の記事がきっかけです。

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待ち合わせをして、加茂川へ。

川添さんはすっごい写真撮ってそうな雰囲気の方でした。(事実ですが)

京都に来るのは久しぶりで懐かしい。

お互い、京都の大学を出ているんですよね。

 

お互い本を1冊ずつ持ち寄って交換しました。

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私が渡したのが宮本輝青が散る、川添さんにもらったのが五木寛之『青年は荒野をめざす』です。

どちらも同じくらいの歳の男女の青春小説でした。両方有名作家の有名な小説。

私はなんとなく、ブログの川添さんの考え方の雰囲気に近いかなーと思って持っていきました。登場人物全員関西弁だし。

川添さんは旅行のイメージで持って来られたらしいです。

内容が真逆

どちらも、20歳くらいの男女が様々な人種の人間(肌の色のみの意味合いではない)との出会いと自分や他人の欲望、闇などと向き合い、成長していく話です。主人公の年齢も同じくらいの青年です。

なのだけど、そのベクトルが真逆。非凡の悩み⇔平凡の苦しみ、みたいな。

 

お互い会うまで何を持っていくか知らなかったはずなのに、同じような境遇の青年の真逆の内容で面白かったです。

 

以下、本の簡単なまとめと比較、感想など。

 青年は荒野をめざす

青年は荒野をめざす (文春文庫)

青年は荒野をめざす (文春文庫)

 

『青年は荒野を目指す』はなかなか前向きな話でした。

ブログの印象は「暗さ」に真っ向から向き合っている方のイメージだったので意外でした(内容はともかく話した感じも暗くなかった)。

 

ジャズでプロを目指す20歳の主人公が、大学に行くのをやめ、自分の殻を破るために主にロシアからヨーロッパ(主に北)を旅する話です。

途中で行動を共にしたり強く関わってくるの人物も、主に才能に恵まれこれから開花しようという男女。彼らが人間の欲望や暗い部分を見たり、巻き込まれたりしながら前に進んでいく、そんな感じの話だと思いました。

 

若い、まだ自分の限界と若さゆえの尖ったところ間で折り合いがつかずにいろんな葛藤をしながら自分の生き方に向かい、才能を試そうとする主人公とその仲間たち。

登場人物の中にはもう中年で既に何かの挑戦に失敗してどん底に落ちている人間も少なからず出てくるのだけれど、彼らもまた一から違う人生を、深みを加えて始めていく。

登場人物(それぞれ強烈に個性的である)の描写が良かったです。みんなそれぞれの頭一つ抜けた才能に明るさと暗さ、強さと弱さを同じくらいに持ち合わせていて。

 

 川添さんのブログの雰囲気と読んでる本からして思いっきり人の闇の部分を強調した内容のでくるかと思っていたので、意外な感じでした。

 若いときはことに、これでおしまいだなどと考えたがるものさ。だが、そうじゃない。人生は何度でも新しくなる。青春は、その人の気持ちの持ちようで、何回でも訪れてくるんだよ。

主人公が巡り、生活する各国の描写も本当にその場にいるように感じられたし、その国柄や人柄、風習、街並み、それは実際行って見て取材しないと書けないんじゃないかというような。

実際にしたのかは知らないけれど、本当に空気や匂いまで伝わってくるかという、まさに「旅」という感じ。

そこらへんのチョイスは確かにいろんな国を、それも有名観光地や明るい面だけじゃない場所も見てきたブログの感じの川添さんらしい本かもしれなかった。

振り返れば、ダークツーリズムだった - Letter from Kyoto

 

青が散る

青が散る〈上〉 (文春文庫)

青が散る〈上〉 (文春文庫)

 

*1

一方青が散るは簡単にまとめると、

・平凡な主人公が惰性で入った大阪の新設底辺大学でテニスに全力を注いで過ごす4年間の話で、

・行動を共にしたり強く関わってくるのも平凡な、あるいは一部非凡な才能があったとしても何らかの理由でそれを活かして生きられない男女。

・彼らが人間の欲望や暗闇、人生のうまくいかなさを味わいながら、それでもいろいろな経験をしながら折り合いをつけ、歩んでいく話。

 

自分自身から逃げ出せない諦めによって、平凡な人生を前に進んでいく話だからこそ面白いのだと思っています。行動範囲も狭い。大阪~三宮くらいの間しか動かない。

努力したって英才教育を受けた天才には勝てない。金持ちのボンボンと美女がくっつき、青春の思い出を抱きながらも予想される、しがないサラリーマンとして平凡な人生を生きていくであろう自分。

 

登場人物みんな好きな人には振り向いてもらえず、精神病や弱さを抱えていたり、挫折したりして、ある者は途中で脱落したりしながらもじわじわと人生を過ごしていく。

 全体的に後ろ向きだが、それでもなんとなくこれからも人生が続いていくんだ、というような不思議とけして後ろ向きではない諦観を伴った独特な雰囲気の小説だと思う。

人間の負の部分やほとんどの人が当てはまる平凡さについて、ここまで濃厚に読ませる力を持って書かれた青春小説はなかったのではないかと私は思っています。

 おわりに

どちらも青春小説としてそれぞれの面ですごく心と記憶に残る小説なので、並べてみると面白かったです。偶然のチョイスで似たような条件のそれぞれ逆方向の話になったことも。

 

自分では絶対買わなかった本だと思うから、知らない人と本を交換してみるって面白いなと改めて思いました。

楽しかったです!全然本と関係ないことばっかりしゃべってましたが、それもまた良し。

川添さんは不思議な考え方の人だなあと思っていましたが、いろいろ対面で話を聞いてみて知らなかった話とか面とかが聞けて面白かったです。印象が変わりました。

 

もし今後も気になる方がいたら、最初に貼った記事を読んだうえで、是非声をかけてくださいね。

lfk.hatenablog.com

ついでに

旅行系で私もいこうかと思っていたので、渋澤幸子の『イスタンブールから船に乗って』とどっちにしようかと迷いましたが、これはこれで面白かったですね。

イスタンブールから船に乗って (新潮文庫)

イスタンブールから船に乗って (新潮文庫)

 

 こちらも旅行記として私が最も面白いと思っている本なので、気になる方は是非。おすすめです。あまり有名だったり、メインでない観光地や本当に現地の人しかいないような場所を女一人旅してるエッセイ。

*1:アマゾンにありませんでしたが、本当は一冊で上下の内容が完結している方を持っていきました

下田美咲の恋愛論で大事なのは、個人差じゃなくて一貫性なんだ。

雑記 恋愛

cakesで下田美咲の口説き方が3シリーズともバズっている。

cakes.mu彼女の突出した独特のセンスと磨き抜かれたオリジナリティのなせる業だと思う。

私は下田美咲が好きだし、ほぼ見る専のtwitterアカウントでもフォローして毎日チェックしている。面白いから。

 

私が特に好きなのは第一回目 「奢ってくれないと困る。あなたのことを性的な目で見たいから 」なのだけれど、twitterなど各所の反応を見ると、「彼女だから許される」「自分個人の考え方であることを書いているのは良いが、みんなに当てはまることじゃない」とかそういう意見を見る。

yutoma233.hatenablog.comごめんなさい。下田美咲を誤解して欲しくなかった。

 

一般論化できないのは当たり前。個人の話なのだから。

でもなんていうか、そこじゃない。

「恋愛論」として見るべきなのは、個人の話かみんなに当てはまるかどうかじゃない。

だって、そうだったら一般に向けて公開する意味なんかないもの。

そんなこと下田美咲氏だってわかっているけれど、あえて書いている。

彼女の恋愛論から抽出すべきは、一貫性だ

下田美咲は徹底的に自分の価値観で生きている人間だ。世間でどうとか、何が普通かとか、どれが得かとかではなく。

 

彼女は、気になる男性と食事に行ったときお金は出さない。出すそぶりも見せない。

「私も半分出しますよ」パフォーマンスをしたことが、一度もない。初デートであっても、何度目かのデートであっても。財布を小脇に抱えて「いくら出せばいいですか」顔を作ったことも、ない。

しかしこれは本人も書いているように、お金の問題ではないのだ。

カフェに入るお金がないなら公園で120円の缶コーヒーでもいいと書いているし、そもそも恋愛対象でなければワリカンで構わないみたいだ。

 

簡単に書くと、

自分が性的な目で見られる人と付き合いたい(目的)

とことんぐにゃぐにゃになって甘える付き合いがしたい

シャキッとしなければいけないシチュエーションをつくりたくない

おごってくれる人でないとお会計のときに毎度シャキッとしなければいけない状況になる(そこだけ急に切り替えないといけなくなる)

とことん甘えん坊モードになれない、そこで萎える

ベッドの中の男らしい感じとのマイナスギャップなどにより性的な目で見られなくなる

だから、デートで必ずおごってくれる人と付き合う

 

わかるだろうか。彼女が欲しい物(目的)とそれを手に入れるための手段が一貫していることが。やることとやらないことがはっきりしていることが。

それができるのは、彼女が自分がどういう人間で何がなぜほしいのかがちゃんとわかっているから。

恋愛を始めて13年が経ち「自分にとっての恋愛とは」が、よく解ってきたからだ。私の場合、ワリカン男子は恋愛対象に向かない

 

目的に対してとる手段が明後日のベクトルを向いていることってけっこうある。

例えば、世話好きな彼氏に甘やかしてほしいタイプなのに、合コンで張り切ってサラダ取り分けたりなんだかんだ世話焼いちゃったりとか。

(一貫性で言うなら、この例であれば何もせず積極的に取り分けてくれる世話焼き男子をフィルタリングする方がいいと思う)

 

世間一般のモテテクを、本当はそれを好まない人と付き合いたいくせに、何も考えずに使ってしまったりとか。

 世の中の恋愛相談は、彼女のしていることと真逆のことで溢れている。

 

下田美咲は、目的とその根拠が明確だから、それを一直線に手に入れに行けるんだ

そして、手に入れることができるのだ。

自分自身の目的(欲しいもの)をはっきりとさせて、それを手に入れるために確実な手段を使う。それが他の誰でもない、自分にとっての幸せな恋愛のための近道なんじゃないかな。

そこのブレない一貫性が、彼女の「恋愛論」から学ぶところなんじゃないかと思う。

 

 

ちなみに彼女はその対価としてちゃんと、「図々しい女と思われるリスク」を取っている。

みどりの小野さんが書いている、

世の中デートでこれはありえない!なんてNGマニュアルに溢れてるけど、本当はそのNGを許してくれる相手とこそ長続きするんじゃないかなぁ。
ただその『許してくれる人』を探すのが難しいんだけど。

ここと本質的には同じようなもんじゃないかなあ、とも思ったけれど。

世間的にNGな「財布を出す素振りもしない」って、『許してくれる人』を探すってことではないのかな。