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読書系フリーターの日常

ブラック企業を新卒半年で辞めた読書好きフリーターがいろいろ考えています。契約社員になりました。

『ノルウェイの森』なんて大嫌いだった

読書

本書は、「誰に共感できたか」で盛り上がれる珍しい作品であると思う。

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

 

 

長年、『ノルウェイの森』と村上春樹は嫌いだった。ところが最近、急に普通に読めるどころか共感までできるようになったのである。

先に書いておくと、この記事は私がノルウェイの森を受け付けるようになった過程と理由の分析である。

ノルウェイの森』との出会い

私がノルウェイの森を買ったのは大学に入ってすぐのとき。

村上春樹の「好き」「嫌い」はどこで分かれるのか? に関する一考察 - (チェコ好き)の日記より、村上春樹ノルウェイの森から入ると嫌いになる確率が高いらしい。私も例に漏れず、上巻の半分辺りで 「無理!」 となり、そこからしばらく本棚の奥にしまいこんでいた。
つーかセリフに倒置法多用しすぎだから。
でも名作名作と言われているので再びその2年後くらいに読み始め、普段の五倍くらいの時間をかけて必死で最後まで読んだ後、村上春樹はもう二度と読まないと思った。

 

なのに、どういうわけか今まで売らずに取っておき (よっぽど良いと思わないとすぐ売る派)、映画まで観たのである。しかし結局現在まで、村上春樹の本には全く触れていなかった。

 

ところが最近になってミドリちゃんの言葉が急に思い出されて、また読んでみたらこれが受け付けるどころか共感して読めるようになっていて。びっくりした。どんな心境の変化かと思った。

そんなわけで、私がノルウェイの森を読めるようになった経緯を書いてみた。
一応書いておくと、今共感できるのはミドリちゃんだけである。

ノルウェイの森が苦手だった理由

ファンタジーだと、認識しきれていなかった。


引用になるが、「村上春樹のやっちゃいけない読み方」の一つに、「現実世界と重ね合わせて読む」というのがある。

村上小説をリアリズムの物語として捉えるなら、そりゃあいろんな表現が鼻について当然です


事実、私はかつて現実の世界と重ね合わせたり、現状の自分と重ね合わせたりして読んでいた。だからこそ、あまりにアリエナイ展開に拒否反応を起こしてしまったのである。
「こんなに女の子とホイホイできるわけないだろ」
たとえばそんな風に思っていた方は、かつての私と同じである。

 

あれはあくまでファンタジーとして捉えるもので、ファンタジーと認識したときに初めて物語として受け入れられるのだ。 
中途半端に当時の日本の情勢や実在の地名を使っているが故に混同しやすいのだが、あくまで現代日本という設定を使ったファンタジーなのである。繰り返す。ファンタジーなのである。
無論小説である以上はファンタジーなのが当たり前だが、『ノルウェイの森についてはファンタジーということを強く意識して読まないと嫌いになりやすいので要注意なのだ。かなりありえないからだ。
「ありえない(明らかにファンタジーな)」設定から入る小説なら、その後の話もファンタジーとして捉えられる。しかし、この本に関しては 「ありえそうな」 設定から 「ありえない」 展開や人物の行動に入っていくので、そこにチューニングする段階で私は躓いたと今ならわかる。
最初からすっと受け入れられる人も多くいるようだが、きっと私とは頭のつくりが違うのだろう。

共感を向ける相手を間違えていた

ノルウェイの森』にいおいては、「共感」というのがキーワードであるように思う。なぜなら、本書が好きな人は、「〇〇に共感した」というワードをかなりの割合で使うからだ。

 

さて、私は最初に読んだときは自分の欲求にまた気づいていなかった。奥底にしまいすぎたのか、意識に上らないようにしていたのか。

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どういうことかというと、共感を向ける相手を間違えていたのである。どちらかというと、当時はぼっちだったので渡辺くん寄りで読んでいた。
なのに渡辺くんときたら、友達はろくにいないわ、別に華やかでもイケメンでもないし不幸に浸ってるくせに、なぜか女の子がホイホイ寄って来るしのだ。 「最後まではしてないからセーフ」 とばかりに二股をかけたりもする。

「なーんだぁ☆手でしてもらっただけなら浮気じゃないね☆」・・ってなるかバカ。

 

それでこんなヤツいねーよ、と思ってイライラしていたのがひとつ。自分と似た境遇だと思っていたのにリア充乙で、裏切られた感じ。
渡辺くんみたいな奴なら確かに女性との話は上手いのだから、少数派の女子がただ友達だと思っていたらじわじわ好きになっちゃってたパターンが現実世界では妥当でしょう?
あとは単に独特の話し方や表現や変わり者アピールが無理だった。(こういうのも一種の「孤独」らしいですが、私には頭でしか理解できぬ部類です)

 

今となっては、その辺の表現が絶妙だから、共感が集まるのだろうと思う。実は人と違って変わってると心の底で思ってるし、周りにもそう言われるけど 「僕はいたって普通だよ」 とか言っちゃう感じ。
ただ普通でも駄目で、回りに変わってるって言われてるだけでも駄目。もちろん自分でそう思ってるだけでも駄目。
特に若者なら誰しも持つレベルの思考だし、かく言う私もそのクチである。いけないとは思わないが、なんだかちょっと自意識をこじらせた嫌な臭いがするのである。もしかして同属嫌悪であろうか。

「明暗どちらにも振り切れない感じ」に共感するパターンもあるようだが・・・。

 

まあ渡辺くんは置いといて、私が本当に共感を向けるべき相手はミドリちゃんだったのである。

私がミドリちゃんに共感した理由

ミドリちゃんの思考は、長女気質と相性がいい、と思う。
かく言う私も我慢と無理で期待に応えようとしてできず、無力感を背負っていた典型的な長女である。ミドリちゃんが渡辺くんに対して要求することや話す妄想は、概ね共感できるのである。
あけっぴろげにそれを表現し、ストレートな中に繊細さと芯の強さと脆さを合わせ持った彼女には好感が持てる。これまた、絶妙な設定。


親に愛される・受け入れられる実感を得られない不満を抱えながら、それでも強く生きなければならない彼女がする発言はいちいち響くのである。(むろん、性に関する部分も私には共感できるのだが)

特に私が印象に残っているのは、渡辺くんがミドリちゃんの家にお呼ばれした後の、ミドリちゃんが語るこのシーンである。

私 が求めているのは単なるわがままなの。完璧なわがまま。

たとえば今私があなたに向って苺のショート・ケーキが食べたいって言うわね、するとあなたは何もか も放りだして走ってそれを買いに行くのよ。そしてはあはあ言いながら帰ってきて「はいミドリ、苺のショート・ケーキだよ」ってさしだすでしょ、すると私は 「ふん、こんなのもう食べたくなくなっちゃったわよ」って言ってそれを窓からぽいと放り投げるの。私が求めているのはそういうものなの

 
私は相手の男の人にこう言ってほしいのよ。「わかったよ、ミドリ。僕がわるかった。君が苺のショート・ケーキを食べたくなくなることくらい推察するべき だった。僕はロバのウンコみたいに馬鹿で無神経だった。おわびにもう一度何かべつのものを買いに行ってきてあげよう。何がいい?チョコレート・ムース、そ れともチーズ・ケーキ?」
私、そうしてもらったぶんきちんと相手を愛するの

わかる。

 

加えて言うなら、私はその後にケーキをホールで買ってきてもらって、それでも、「他に食べたいものはないの?欲しいものなら何でも買ってきてあげるよ」って言われてみたい。
もちろん、言われてみたいだけ。それくらいのこんなひどいわがままを一度くらい受け入れられてみたいというだけである。ミドリちゃんのそれも、それくらい傷ついているという表現でもある気がする。
だから、もし実際に言われたとしたらその言葉が最後まで終わらないうちに断ると思うし、それ以前にケーキを買いに走る時点で引き止めて断っている。
ショートケーキを投げつけたりは絶対にしないし、それは多分ミドリちゃんも一緒だと思うのだ。

 

不思議なもので、一人に共感できてしまうと、物語が抵抗なく入って来たのである。ありえねーよ、と思っていた渡辺くんでも、きっといろんな人がいろんな背景を抱えて共感しながら読んでいるのだろうな、とファンタジーであることが心の底から理解できたのである。

まとめ・なぜノルウェイの森を普通に読めるようになったのか

一言で書けば、それはミドリちゃんという一人の人物に共感し、そのことによってファンタジー性について納得できたから、といったところ。
その逆で、かつては人物の誰にも共感できなくて、そのことによってファンタジーゆえの「ありえなさ」が受け入れられなかったのである。

 

皆が皆共感して読んでいるわけではないとは思う。だけど、熱心なノルウェイの森ファンなら共感できる人物の一人くらいはいそうなもので、それを確実に把握してこそ物語の世界に飛び込んでいけると思うのだ。
かつての私は、共感を向ける人物を間違えていた。本当に共感できる人物を見出だしたとき、初めて物語に入り込むための扉が開いた、といったところだと思うのだ。

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)